今日は久しぶりにミートくんと飲みにいった。

本当に久しぶりの再会でした。居酒屋からバーへ、近況を報告しつつ、多くを語りました。大きな目的として英語ネイティブの彼に、私の英語能力を評価してもらうことがありました。かつて彼とアメリカを共に旅しました。当時私の英語力はゼロにも満たないレベルでした。それから数年、私の英語力はどうなったのでしょうか。

会話を英語に切り替え、奮闘しました。彼は私の英語を「ずっとよくなった」と評価しました。私をひよっこレベルから知っている彼からの評価は私にとって大きな意味を成します。

しかし、私の自己評価は低いものでした。初対面や関係の浅い人との会話はもっともっと話すことができます。相手の事を質問する。自分を紹介する。これらは簡単な英語で事足りるからです。しかし深い関係の彼との間にそういった会話はありません。もっと専門的でもっと感情的で、もっと哲学的な内容です。だから何にも口から出てこない。ひどいものです。

結局、数年間勉強してこのレベルかよと、自分にツッコミを入れました。私は極めて表面的な英語を使って話せる気になっていただけです。しかし、第二言語習得とはこの繰り返しなんだろうとも思います。少し自信がついては鼻をへし折られ、またそこから自信をつけ、またへし折られる。だから自己評価は常に低い。でも、これでいいのだと思います。人は知識を得れば得るほど、自分が無知であることを知っていくからです。

「英語習得は思うよりずっとずっと難しい」と、感じました。それはロサンゼルスの友人が言った言葉でもありました。私は今ようやくそれを実感できるレベルにきたわけですね。

英語を復習していると思うのですが、中学生時代からまともに勉強していればかなり話せるようになっているはずです。それほど中学英語は英語のコアだと思います。もっとあの時勉強してれば今こんなに苦労することはない。英語が未熟な事によって私は多くのチャンスを逃しました。若い時の自分によって今の自分が生かされます。若い時の堕落が今の没落。まさに因果応報。後悔先に立たず。だからこそ、せめて子供には施しを与えたい。そう思って娘には英語教育を与えています。しかし人はコントローラブルな存在ではありません。娘は親が思う遠くの成功よりも、目先の動画へ。親の心子知らず。いや昔の自分もそうだったのでしょう。結局、親が何を思おうとも遺伝子は超えられないのでしょうか。

ともあれ、第二言語習得は楽しいです。まったく構造の違う言語を学ぶ事は、別人格を作り上げるようなものです。英語力の成長に伴い、もう一人の小さな自分が段々と自我を持ち始め、やがて今の私の思考を乗っ取っていくのでしょうか。