子供にスマホを渡してからどれくらい経っただろうか。もう何か月も経過したように思えるが、実際は1カ月も経っていない。受験という荒波を超えて解放された娘にはスマホという現代ツールが備わった。それをどうやって使っていくのだろうか。私は常に観察している。

私が小学生の頃、遊びといえば近くの公園だった。土と虫にまみれていた気がする。都心に住む子供達はどうだろう。予定の空いた週末は原宿に出かけていく。スタバで友達と落ちあい、好きなYoutuberをみんなで批評する。クレープを食べ、カラオケに行く、その様子をインスタにアップする。
情報の取得には貪欲で、知らないECサイトを見せてきて、この服が欲しい、この靴が欲しい。そういうおねだりが多くなった。

街で遊ぶ事は小学生の資金力では無理がある。各々独自の手法で親から資金を調達しているようだ。お手伝いをして稼ぐ者、お小遣いを貯めている者。親のクレカを持ち、無尽蔵の資金力を持つ者。様々だが、集まって遊ぶ時にはみな足並みを揃えているようだ。相場は最低でも3000円。プリクラ、カフェとクレープ。妥当なのか。

こういった現代の都心スタイルは到底私にとって受け入れられる事ではない。あまりにも自分の時と違いがありすぎる。かといって強力な規制を敷いてしまえば、友達を失う事になりかねない。そういう遊びをする友達を作らなければい良いと言葉にしそうになるが、それも残酷だ。娘は娘なりに、自分で形成した環境で生きている。それを全部否定するワケにもいくまい。

親が子供に安否確認をする上でスマホは良いツールになる。しかし子供はスマホを持つ事によって、津波のように押し寄せる情報に流されてしまいがちになる。スマホを渡した直後、電子コンテンツの快楽に魂を丸ごと持っていかれてしまった。突然塞ぎ込み、私と距離を置くようになった。家に一人でいたがるようになった。思春期かと一瞬思ったが、あまりにも変化が急だった。顔が歪んでいくのがよく分かった。世界の狭い小学生にとって、スマホが与える快楽は大人が思っている以上に強烈だ。致し方ない。私は妻と相談し、スマホ利用に関してより厳しい規制をかけた。

iphoneとアンドロイド。私は当初アンドロイド端末を使わせようと考えていた。iphoneは子供が持つには高価だし、使いこなすために思考力を要するのはアンドロイド端末の方だったからだ。しかしアプリ導入の規制や、利用時間の制限を行う上で、親の思惑を達成できそうなのはiphoneだった。アップルOSは子供の事もしっかり考えて作られている。

夜になるとスマホは完全にロックされ、1日の最大利用時間は2時間に設定した。アプリのインストールはママのスマホで承認しなければ導入できないようにした。

LINEやインスタ、SNSツールはすべて目を通している。”監視”とならないように、子供と親で堂々と共有できる空気を意識して作るようにしている。

街で遊ぶ事を否定はしないことにした。ただし街へ出る時は友達三人以上で行く事を義務付けた。二人きりは何かと危険だ。息子のテニスに行く時も、どこに行くときも、例え友達との約束があろうとも、家族との時間を優先するようにさせた。娘は”個”が弱く、周囲の影響を強く受ける。まだ善悪の判断もつかない。親といる時間がまだまだ必要だと思った。

ママとパパ。立ち位置を明確にした。原宿、スマホ、学業と関係ない事すべて。ママはそれらを全否定する。パパはどちらかと言えば肯定という立場。相反する存在だが、実はこういった立ち位置を明確にした方がバランスが取れた。

娘の歪んだ顔はスグに戻ってきた。今までのあっけらかんとした娘に戻った。情報の波は子供にとって非常に危険である。スマホは麻薬と言っても過言ではない。知らず知らずのうち中毒に陥ってしまう。情報の波にさらわれる子供の手を親は離してはならない。時に奪う事も重要だ。怒鳴ることも重要だ。それは親にしかできない事である。子供にとっての自由は孤独を意味する。規制は子供が親に帰属すること、守る事である。そして子供は親の想いをどこかでは理解している。

既に私(親)の価値観で今の子供達を評価することはできないと悟った。時代がまるで違う。大事なのは私達親が、現代社会の変化を敏感に感じ取り、今の子供達が置かれている状況を理解し、何が最適かを見極めていく必要がある。

子供にスマホ。親の力が試される場面であると痛感した。