先日、大阪、博多の新卒者を訪問。そして飛行機で東京に戻りました。1日でこうも移動すると日本国内の旅行などどうでもよいという気になってしまいました。

彼ら(新卒者)と話をしていて気づいた事があります。全員”奨学金”の利用者です。つまり社会人になった途端、数百万円の借金の返済が始まるということです。そういえば奨学金で破産する若者が増えていると聞いたことがありますが、なんとしたことか、そういう現実をスッパリ忘れていた自分を呪った瞬間です。

当然キャリアまっさらな新卒者です。入社後3ヵ月の研修に加え、業務訓練などを考えると1年以上彼らの人件費は投資としてみなされます。リターンがない以上、支出は抑えたい。よって人件費は安く設定されます。そうなると毎月の奨学金返済が重くのしかかるのは必至。100%会社に、仕事にフォーカスしてもらうために、生活になんの不安もない環境を提供してあげるのは会社の責務でもあります。そう考えると奨学金利用者への対応について会社側も何か考慮せざる得ません。

しかし、”給料額を数万円高く設定しよう”という安易なことをするべきではありません。それは公平さを欠き、そもそも給与にそういう基準を持ち込むべきではないからです。これはとてもとてもボクを悩ませます。

彼らと少し議論をしました。立ち入って話を聞いてみます。「周囲はほとんどがこういう状況です。留学した人は更に数百万、借り入れが上乗せされます。」そう語ります。この背後にあるのは親の貯蓄と将来に対する稼ぎが足りていないということです。彼らは高校卒業18歳で数百万の借り入れを申し込みます。その時彼らはこの大金をイメージできているのでしょうか。「進学はしたいんです。その手段が奨学金です。利用せざる得ないんです。」それを物語るかのように、総借入額、毎月の返済額、それが何年続くのか。正確に把握している子はいませんでした。

更にボクは家族構成に踏み込みます。過去に入社した新卒者のデータも見てみましょう。なるほど。一定数、母子家庭で育った子がいます。そして彼らも例外なく奨学金利用者です。共通して言えるのは、どの子も母方についていること。そして
パートなど収入が安定していないことです。しかしそういう子ほど実直で業務成績や技術習得能力が高いのです。これは会社への貢献度が高いということでもあります。

この現状に対してある策を仮定してみます。奨学金という重いものを会社が肩代わりしたとする。それにより彼らから生活への不安が払拭される。それは心に余裕がもたらされることを意味し、仕事や技術習得に、より一層打ち込めることになる。個々の人材能力が会社の資産だとすると、負債という奨学金は、会社を底上げする力に変換可能かもしれない。そう考えます。

もしこういった策を実行に移す場合、チームの説得が必要でしょう。何故なら会社の売り上げを作るのは経営層ではなく、最前線で働くチームです。ボクが彼らに頭を下げる必要があるでしょう。「君たちが努力して作った利益の一部を若き可能性を支援するために割いてくれないか」と。

とはいえこれは実行不可能です。奨学金を得ずに、自力で社会に出ている子もいるからです。いかに公平性を保つか。これも重要な経営課題なのです。

やはり万全の策にはたどり着けませんでした。しかしこの問題には諦めず対処します。目の前にいる彼らは、少なからず勉強が好きで、負債を抱えてでも進学を望み、新しい可能性を求め上京を選択し、それでも親に恩返しがしたいという素直でやさしい子たちです。こういう想いに仕事さえやっていればいいんだという会社の姿勢は正解ではないように思えます。社会に貢献するために学業に専念した若者を待ち受けるのは、社会から課せられた借金返済です。彼らはそういう現実を甘んじて受け入れるサイレントマジョリティーな存在です。何か強力な支援プログラムを。それが会社を強くし、更に雇用を生み、納税が施され、社会に還元されていくと思えば、やはり彼らを取り巻く環境。社会は見逃すべきではないと。そう思います。

家庭教育、学校教育で得ているべきスキルが現代の子たちは与えられていない気がしてなりません。グローバル化する社会で、これは大きなハンディキャップになりえます。やはり社会教育者である私達大人は、家庭、学校教育にまで手を伸ばしていかないといけないのでしょうか。今目の前にいるまっさらな子たちこそ、日本の未来そのものです。そう思うとボクがやらなければならないこと。手に取るように分かるけど、実行する力がない自分をやっぱり呪う今日この頃です。