何度かボクも新卒研修を行っています。

新卒達に聞くと、学校では学問と、そしてせいぜいキャリアを描くことしか教えてもらっておらず、実際に社会に出て”どう生きていくか”みたいな教えは一切ないと言います。もちろん学校は学問を与えるところであり、そういう類は専門外。しかし学生たちが最も欲してるのは最も身近で、そして絶対に必要な「社会での生き方」だったりもします。

家庭教育、学校教育、社会教育という三大教育で人は成長します。この中でもっとも重要なものは家庭教育で、最後の社会教育は今までの集大成とも言えるでしょう。しかし現代は家庭教育がうまく機能していないようにも思えます。貧困問題は実は身近にあるし、そして彼らの親の世代はまだ日本がドメスティックでエスカレーター式の社会であったが故、現代に適した生き方を教えられる状況にないのです。

急速にフラット化される社会。ボクは学生たちが迷える子羊にも思えます。誰一人として可能性がない子なんていないのに、それを効率よく伸ばす術もなければ、アピールする事も知らず、本人の持つ能力に気づき、拾い上げる社会でもありません。過激に広がる格差社会、多様化する働き方。生き方は昔に比べ個人の意思に任されます。これは自由度の拡大を意味しますが、人は自由すぎると逆に不安を持ち、歩むべき道を失いがちです。競争を勝ち取り、のし上がってきた奴だけ見てればよい。そうも思いますが、別の見方をすれば彼らは日本の将来の担い手であり、決して使い捨ててはいけない存在なのです。

さて、彼らにどういう事を話しているのか、テキトーにまとめておこうと思います。

お金とは何か。
彼らの回答は、「可能性を広げるもの」、「人を変えてしまうもの」、「体験に変えられるもの」、「労働の対価」様々でした。何一つ間違ったことなどありません。ボクはこう話しました。お金は物理的には存在しない。今手元にあるお札は単なる日本銀行が発行した”券”であり、それは信用を可視化したものである。つまり世の中はお金で成り立っているのではなく、信用で成り立っている。そしてお金は信用と時間と交換可能であり、それぞれは密接に結びついている。つまり時間を適切に使わない、信用をおろそかにする。これは必然的におカネを失う事につながる。逆を言えば、おカネを気にせずとも、信用を蓄積し、時間を有意義に使うと、自然とおカネは増えることになる。

おカネ欲しさにダブルワークする愚かさ。
目先のおカネに注力し、メインの仕事以外の時間にもう一つ仕事を持つ。やりがちな事です。労働することにより実入りは増えても実際には時間を消費してしまっています。できれば空いた時間はより一層メインの仕事で成果を出せるための学習や体験に充てたほうが長期視点で見ると成長しやすく、それは評価につながり、より高い実入りとなります。無理なダブルワークはメインの仕事に集中する意識を削ぎ、やがてすべてが低迷に向かいます。せっせとダブルワークに励んでいる人がいつまでたっても辛そうな表情をしているのはこういうことでしょう。

与信枠を借金という悪に変換する。
クレジットカード、住宅ローン、あらゆる借り入れを悪だと思う風習があります。この考えだと、今手元にあるおカネこそが自分の全財産だと思いがちです。しっかりと会社に所属し、勤続年数を積めば、必然的に与信枠が与えられます。おカネは信用と交換可能と述べたように、見方を変えると与信枠は自分の持つおカネです。手持ちより大きなおカネを元手とし、より一層増やす。これはスーパーカーオーナーが当たり前のようにしていることでもあります。この与信枠を悪だと思い込んだ瞬間、少ない手持ち予算で勝負することを迫られます。これは負けを意味します。もっとも、与信枠を浪費やギャンブル性の高いものに当て込むほど最悪なことはありません。

浪費を投資に変換する思考を。
好きな事をなるべくしたほうがよいです。クルマが趣味、旅行が趣味、ゲーム、釣り。なんでもOKです。大いに励んで欲しいと伝えました。でも、ボクのようにクルマが趣味なら、そこから有意義な人とつながり、ビジネスを構築する。旅行で各国を回る。せっかくならその国でさかんな産業、人の消費動向、志向まで目を向ける。そこにビジネスチャンスがあるかどうかを探る。そういう視点の変換をするだけで消費は投資に変わります。思考停止状態で趣味だからという大義名分を振りかざし、好き勝手することを浪費と呼ぶのです。

人を切り捨てよ。
昔からの友達だから今も友達でいる。地元に友達がいるから東京には行かない。なかなか聞く言葉です。誰と友人関係を築くかなんて自由です。でも少なくとも自分より同ステージもしくは上位に位置している人と関係を構築したほうがよいでしょう。自分より下層ステージにいる人や、妬み嫉妬、他人の足を引っ張る人と「友達だから」と言ってずるずる付き合いを続けることは自分の成長を阻害することになります。もしその友達が自分の人生の面倒でも見てくれるなら大事にするべきでしょうが、往々にしてそういう友達はいません。思い切って関係を解消することも重要です。たいていの成功者は友達が多くありません。つまりより充実した人生に多くの友達は必要ないのです。、一緒にいて苦痛でなく、新たな刺激を与えあえる。そういう人が本当の友達と言えるのです。

人と比較し劣等感を感じる。しかし妬むな。
一流大学の人と自分たちを比べて劣等感を感じるか。こう問いました。答えは半々です。「自分は自分です。比べません。」、「感じます。私はそこまで行けなかった。」劣等感を感じない組は堂々と、健やかに答えます。感じる組は少し申し訳なさそうに答えました。ボクは言いました。劣等感は成長へのエネルギーに変換される。キャリアも能力も白紙な新卒ステージで、劣等感も感じず、今の自分で良いという考えは成長を阻害する。人は子供の頃から他人と自分を比べそれより上に行こうとして成長を続けてきました。劣等感は言葉が悪いだけで実は強くなるためにはなくてはならない感情でもあります。ボクが夜の商売でトイレ掃除から駆け上がった根底にあったものは強烈な劣等感と他者との比較。これがボクを強く強くしてくれました。ちなみにこの感情を抱き始めると明確に顔つきが変わります。学生時代はみな横並びなので顔に締まりがありません。新卒2年目3年目になるとキリっとした顔つきに変わります。とてもカッコよいです。これは仕事ができない自分へ劣等感を感じ、自己と向き合い、達成し、成長を自覚した事を意味します。そして妬ましい人の顔は歪み、人の荒を探す目に変わります。体全体から負のオーラを匂わせ、やがて人が離れていき、孤独を味わいます。そしてより一層人を妬むようになるのです。

人の習性は蛾と一緒。
虫。蛾。光輝くものに誘われ周囲を飛び回ります。人も一緒です。自信に満ち、他者の痛みを感じ、理解を示す。堂々と物事を言い、発言に躊躇はない。姿勢がよく、人望も厚く人を妬まず、良いところに目を向ける。否定から入らず、まず尊重する。こういう輝いた人間には多くの人間が自然と集まります。彼らはチャンスを運び込み、やがては富に還元されるのです。

人は生きてるだけで消費する。
人生に衰退(失敗)と繁栄(成功)はあれど、横ばいはありません。名家出身や、特殊なバックグラウンドを持つ者でない限り、行動を起こさねば確実に衰退します。資本主義は富が強者に吸い上げられるように設計されているからです。つまり人生は元々ネガティブに働くようにできているのです。

この世は確率に支配される。
量子力学をかじるとこの世がいかに不確定要素で成り立っているかが分かります。人生をシンプルに衰退と繁栄に分ければ50%の確率でどちらかになります。しかし元々人生はネガティブに働くようにできているので繁栄する確率は50%を優に下回ります。大事なのは成功するための生き方を模索するのではなく、成功させる確率を上げる事です。ランチの1時間、同僚と愚痴大会をするくらいなら、先輩や目上の経験者と行ったほうが成功する確率は上がります。一般車のコミュニティに参加するよりは、スーパーカーのコミュニティに参加したほうが成功する確率も上がります。家の広さや安さを優先するために郊外エリアを選択するくらいなら、狭くても活発で社会の第一線で活躍する人達がいる都心エリアを選択したほうが成功する確率が高まります。人生を繁栄に向かわせるのに何も難しいことはなく、自分の身を成功する確率の高いところに置いてあげる意思を持つことです。コツコツと成功する確率を積みあげていくと、やがてブレークスルーポイントがやってきます。つまりジワジワと繁栄はやってくるのではなく、ある時急激な波のように押し寄せるのです。

ベンチャー企業への就職。億万長者への道
今ボクの目の前にいる新卒達は妥協や失敗の末、ボクの会社に来た者達です。でも、大手の就職に失敗したことは本当に失敗でしょうか。公務員試験に落ちたことは本当に悔やむべきでしょうか。中小ベンチャーへの就職はそういう妥協と失敗の末の結果なのでしょうか。経営陣と距離が近く、アイデアが事業に反映されやすくてフットワークが軽く、ダイレクトに成功も失敗も感じることができるベンチャー企業への就職が失敗というのなら、本来求める成功とはなんなのでしょう。利益還元率が高く、もし仮にアイデアに富み、強い行動力を持つ者ならベンチャー企業への就職こそ億万長者への最短切符のように思えます。逆に変化を求めず、何一つ変わらぬ毎日でただ歳だけを取りたいのなら今すぐ中小ベンチャーから去ったほうがよいでしょう。そして悲運にも就職した中小ベンチャーの経営陣が保守的で、リスクを恐れる文化ならば、それも即去ったほうがよいでしょう。墓場同然ですからね。

駆け出しから仕事とプライベートを分けた瞬間、繁栄の道は閉ざされる
世論は仕事とプライベートを明確に切るような動きになっています。ブラック企業、過労死、自殺、行政は企業にそう指導する必要があるのでしょう。大衆の9割がそういう世論を正と思い込みます。会社を出た途端仕事の事は忘れていいのだと。休日も夜も、自分のプライベートの時間は何人にも侵されるべきではないと。これに正解はありません。ただし、私が見てきた成功者達に仕事とプライベートを明確に区切っている人はただの一人もいませんでした。いうならばプライベートも仕事、仕事もプライベート。そこに苦痛などなく、むしろ楽しんでいるようにさえ思います。大抵プライベートと仕事を明確に区切りたがる人は働いている時間を苦痛に感じています。一日の主要な時間を占める仕事の時間が苦痛なら、人生そのものが苦痛でしょう。そういう人にはチャンスも人も巡ってこなくなります。

社会に出た瞬間、学習をやめる
何故学生時代は休日も夜も、プライベートな時間を使ってまで学習していたのでしょう。そしてなぜ社会に出ると「今は労働の時間ではないから」と言って学習することを辞めるのでしょうか。こういう人は往々にして世論を間違って解釈しています。給料は労働の対価だと思い込み、拘束されていない時間は一切仕事の事は忘れる。それこそ労働者たる権利だと。しかし給料には未来の成長への期待も込めた投資額も含まれています。実際の労働対価など実に安いものです。こうやって謎の労働者権利を振りかざす人ほど、そのポジションはより安価で優秀な外国勢に一瞬で取って代わられます。

 
 

みたいなことを話しますが、大体1割も理解されません。でもそれでいいのです。学生時代から社会へ変わる事は大きな変化です。内容など理解しなくても、最終的に「今までの自分の思考や視点を変えなければならない」と思ってもらえることが目的です。でも柔軟な子はこういう話だけで翌日から行動と顔つきが明確に変わったりします。そういうのを見ているとどんな若者にも社会がチャンスは平等に与えるべきだと。そう思いました。